歴史に記録されたパシナブルー
のこと
特別急行「あじあ」を牽引する蒸気機関車パシナ形の塗装色について、戦後になってから諸説が展開されていたのは特別急行「あじあ」が
運転を開始した昭和9年(1934年)当時の南満州鉄道株式会社は正規職員数10928人で全従業員数46170人でしたが、次々と建設され
た新規路線の開業と共に会社全体の規模が急速に拡大し、従業員数も年々増加を続けたために、特別急行「あじあ」運転開始から、運転
休止になるまでの僅か8年7か月の間に、南満州鉄道株式会社の正規職員数は約4倍の42089人、全従業員数は約8倍の374976人に
膨れ上がっていたことがあげられます。

「あじあ」の運転開始の当時を知る者の数は全社員の僅かに10分の1足らずで南満州鉄道全路線10000キロ超のうち連京線区間の800キロを
1日1往復走るだけだった特別急行「あじあ」の牽引機関車の車体の色については、南満州鉄道の従業員といえども人伝えに聞いたことが
あるだけで、特別急行「あじあ」については、満州にいた時には実際には1度も見たことも乗ったこともなく、パシナ型蒸気機関車の白黒
写真が掲載された新聞広告やパンフレット、モノクロームの映画でしか特別急行「あじあ」を見たことが無かったという南満州鉄道株式
会社の従業員も多かったことがあげられます。

一方、当時の日本では「満州といえば満鉄」というくらい国策会社の南満州鉄道株式会社は認知度がありました。南満州鉄道株式会社は
鉄道経営以外にも大連・奉天・長春・哈爾濱・星が浦などでのヤマトホテルチェーンの経営や星が浦リゾートの開発、日本人向け中国人
向け各種学校の経営・電力供給・ガス供給・炭坑・製鉄・人造石油製造・軽金属・不動産など満州国内における主要な産業を一手に行う
巨大コンツェルンとして有名で、多くの個人投資家からも国家が経営に携わる安全な投資先として知られていた超優良企業でした。

また当時の尋常小学校の国語教科書には「あじあに乗りて」という満州への少年の旅行記が掲載されていて、当時多くの日本人からは
満鉄の「アジア号」として列車名が知られるようになりました。また、特別急行「あじあ」という列車は、南満州鉄道株式会社の象徴
または満州国の象徴の1つとして、東洋一の快速車と謳って運行されている事も広く世間に認識されていました。

太平洋戦争終戦の前年(1944年)に南満州鉄道株式会社は全従業員数398301人となり、このうち日本人の従業員が138804人、中国人
の従業員259497人でした。1945年8月に終戦を迎えた138804人の日本人従業員たちは、ソビエト社会主義連邦共和国軍の満州占領で
南満州鉄道株式会社の法人格が消滅した事を占領軍であるソビエト社会主義連邦共和国軍から通告された後も、南満州鉄道株式会社の
全社員が満州における現職に留まって、鉄道輸送及び生産機能の確保に努めました。南満州鉄道株式会社全社員の残留任務が解除され
日本人従業員の日本本土への引き揚げが、ようやく始まったのは終戦の翌年の1946年になってからのことでした。

南満州鉄道株式会社の従業員として日本へ帰国した方の中には、日本本土での「満鉄=あじあ号」という共通認識に対して、自らが体験
してきた南満州鉄道株式会社における各種業務は、同じ会社に勤務していたというだけで、あじあ号とは直接のかかわりも、縁もゆかり
も無くても、勤務する会社の象徴であり、日本国民の誰もが知っていた看板列車については知らないとは決して言えずに伝聞をそのまま
戦後に語ったか、1970年代になって中国の機関区で日本の鉄道ファンが、廃車寸前のパシナ形蒸気機関車を発見したことがニュースになり
これをうけて、中国鉄路局により復元されたパシナ形蒸気機関車のカラー写真を初めて見て、自らが伝え聞いていた伝説の青い機関車の事
について「あじあ号を牽いていたパシナ形蒸気機関車の青色はこうだったんだな」と後日に強く認識した元南満州鉄道株式会社の従業員も
少なからずだったために、伝聞や想像から語られた話が人伝えされていくうちに、いつしか見たという話に変わってしまったりしていて
正しい情報が後世へと伝わりにくくなったということが「パシナブルー」の謎についての最終的な結論となりました。

このことは、2006年11月26日に行われた満鉄会の創業100周年行事で同席していた旧満鉄職員から聴取した内容に基づいています。
旧満鉄社員には実はパシナの色を知らない人が多かった
こちらがモデルになったオリジナルの写真
錦州〜大房身を走行する大連行き「あじあ」
客車より機関車が濃い色で塗装され砲金製
プレートを装着しているのが判る
1939年撮影  S田鉄道博物館蔵 
特別急行「あじあ」の終焉
日満定期航路は6000d級の豪華な客船の旅であった
牽引機パシナ・パシナブルーと塗装色の謎
特別急行「あじあ」特別急行券・乗車券
1939年に書かれた記念切手の初日カバーの英文解説書
鉄道1万キロ突破記念切手の初日カバーの英文解説書には
化学的な変色について以下の表記がなされていました。

21st.. October 1939
Express train Asia

Same forgeries of this value exist with the colour chemically changed.
Loco appears as grey-black.


1939年10月21日
急行列車「あじあ」

(切手の)価値の同じ捏造物が化学的変色である。
機関車は灰黒色のように見える。

この解説書が機関車の色の化学的変化の価値に拘るのは
製造時のエラー品はエラー切手として価値が高くなるためで
全ての切手の機関車の色が藍色から灰黒色に化学的変色
したために特に印刷の色が違っていても切手の価値は変わ
らないと明記したものである。
パシナ981(パシナ12)号機は鉄道1万キロ突破記念の切手図案になり
「あじあ」は日本の傀儡国家である満州帝國繁栄の象徴としても
利用されました。この切手は発行枚数各片15万枚のうち約半分が
満州国宣伝のために海外へと輸出されてゆきました。

南満州鉄道株式会社総裁室弘報課デザイナー佐々木順氏による
原画を元に製作された切手は、縹色(はなだいろ)と藍色の2色で
印刷されました。

一般的には、この切手のパシナ981は黒で印刷されていると思われ
がちですが縹色インクで印刷した上に藍色インクでパシナが印刷さ
れており化学的な変化で印刷が黒っぽくなったものである。

1939年の切手製造時の説明書(記念切手初日カバー)には‥
4分(額面)・縹・藍・2色・中央に満州国鉄道が東洋一を誇る流線
型高速度特別急行列車「あじあ」を表す
と記載されていることからも「あじあ」(パシナ)は実機塗装どおりの
藍色のインクを使って、この切手が印刷されたことが判ります。

日本本土では小学校低学年の国語の教科書に「あじあに乗りて」
が掲載され特別急行「あじあ」の知名度は次第に満州には行った
ことが無くとも全国民の知るところになっていきました。

1939.10.21発行   S田鉄道博物館蔵  
14時10分に新京駅を発車のパシナ977牽引大連行きの特別急行「あじあ」
写真はパシナ972牽引の大連行き特別急行「あじあ」
           1935.5撮影  奉天駅  S田鉄道博物館蔵
1934年(昭和9年)11月1日に南満州鉄道で運転を開始した
特別急行 「あじあ」は蒸気機関車牽引で最高速度130km/h
を誇る東洋一の超特急列車でした。

特別急行 「あじあ」は南満州鉄道連京線の大連〜新京間
701.4kmを8時間30分で走破し、それまでは急行「はと」
で10時間30分かかっていた区間において2時間も短縮する
快速運転を行いました。

また大連〜新京間における特別急行 「あじあ」の表定速度
は82.5kmと日本の特別急行「燕」の表定速度69.55km/h
を大きく凌いでいました。

超特急の客車列車を牽引する大型蒸気機関車は濃い藍色に
塗装されたパシナ形の蒸気機関車で、客車は濃い緑色の車体
に白線が1本入った流線型の6両の客車の編成でした。

「あじあ」専用に新製されたパシナ形蒸気機関車は1934年に
11両が製造され大連機関区と新京機関区に配置されました。
パシナ形蒸気機関車のパシナとは、車軸配置が2-C-2型となる
パシフィック型の蒸気機関車で7番目に設計された機関車
という意味を表す満鉄独自の蒸気機関車の形式名称です。

パシナ形蒸気機関車は、運転整備重量が、203.31dもあり
全長25.675m、動輪の直径は2mでテンダーに石炭12d
・水37dを積載するなど、超大型の蒸気機関車でした。
パシナ形蒸気機関車の製造では、日本の川崎車輌で8両が、
満州国の満鉄大連沙河口工場で3両が製造されました。

また、1936年には特別急行「あじあ」の象徴でもあった
有名なヘルメット型の被いを取り付けた1両が増備され、
パシナ形蒸気機関車の総数は12両となりました。

パシナ形蒸気機関車の形式は、製造当初はパシナ970〜981
が付番されていましたが、1938年3月に車輌称号の改正
が行われパシナ1〜12に変更されました。

1936.3.11撮影  新京駅  S田鉄道博物館蔵  
特別急行 あじあ (国際連絡特急・1934.11.1〜1943.2.28) 大連〜哈爾濱
 
アクセスカウンター
「車体色ライトグレー説」の根拠にもなっている公式写真だが「淡緑色」
で描かれた右の看板デザインの元写真にもなっていた

1936年撮影                 S田鉄道博物館蔵
この看板の「真贋」は不明だが淡緑色で
パシナ12(981)が描かれて大変興味深い
ディティール等はデビュー時の仕様で
描かれ薄い塗装色の時代とも合致する
パシナ979(パシナ10)  1934年撮影  S田鉄道博物館蔵
公式写真の写りには関係なくパシナが「濃藍色」であったことが記念写真に納まった人の衣装の色と比べても判る
また濃藍色機関車上部が光の反射で白っぽく写っていることからも光の角度でパシナの写り方が変わるのが判る

川崎車輌で完成したパシナ979(パシナ10)  1934年撮影   S田鉄道博物館蔵
公式発表の写真の色からパシナの色は水色やグレーと想像されていったが
下の写真と撮影場所も撮影時期も一緒なのである


パシナ979(パシナ10)  1934年撮影  S田鉄道博物館蔵 
1935年に南満州鉄道が新聞に載せた全面広告には「濃藍色の機関車」の記述がある  1935.3.26満鉄全面広告   S田鉄道博物館蔵
パシナ形機関車の塗色は「あじあ」開業後の牽引では、1934年の開業当初からパシナ1〜11(パシナ970〜980)の「濃藍色」と1936年に製造さ
れたパシナ12(パシナ981)の「淡緑色(ライトグレー)」が加わりますが1938年には「濃藍色」に全機が統一されました。

デビュー当初のパシナ12(パシナ981)を「淡緑色」として「ライトグレー」とは明記しなかったのは「ライトグレー」であった物証があまりに
乏しく強いて見るならば前述の記念タバコの図柄であるが、タバコの製造元が東洋煙草株式会社で南満州鉄道株式会社の系列では無い会社
の製造物であるのに対して「淡緑色」であったことをカラーで示す物証の方が多数現存することが根拠になっています。

パシナ形の前照灯も1937年に盧溝橋事件が勃発し中国大陸での日支事変が拡大すると戦時の灯火管制仕様になりました。1941年12月8日に
太平洋戦争が始まるとパシナ形蒸気機関車は、防空上の観点から一般型蒸気機関車同様の黒色塗装へと変更されました。黒色に塗装変更後
の「あじあ」の運転では、牽引の蒸気機関車を黒く変更した図案が
「あじあ」食堂車配布のマッチ箱にも描かれました。

「あじあ」用客車は1943年2月28日の「あじあ」運転休止後には一般客車と同様の茶色に塗り替えられて南満州鉄道連京線の
急行「はと」
にも連結されましたが客車の床下を被う流線型のカバー類は取り外されてしまいました。
特別急行「あじあ」の牽引機関車パシナ形は濃藍色に塗装されていました。
しかし、現在中国残存の2両のパシナ形や戦後に模型化されたパシナが現役時
の塗装色とは異なったスカイブルーやライトグレーの色に塗装されている
理由については、1934年に満鉄大連沙河口工場で完成したパシナ1(970)
とパシナ2(971)を撮影した機関車公式写真や2年後パシナ12(981)を撮影し
た機関車公式写真が実際の機関車色より白っぽく写っていることに起因
しています。

これらの写真は、機関車の細部まで写っている必要があるために太陽が
高い位置にある時間に順光で屋外撮影されましたが、完成した写真では
トリミングされたり焼付け時間の調整や部分的な被い焼き処理が施され
影で車体の不明部分が出ないように調整されていました。

もっと解りやすく説明をいたしますと1934年当時の機関車公式写真は
現在で言えばアナログ的に加工され例えれば写真加工ソフトであちこち
加工した写真と同様の効果を得ている商業写真なので肉眼で見たまま
ズバリが写ってはいない写真となっていることです。

2006年11月26日に行われた満鉄会の創業100周年記念大会に参加を
した際に南満州鉄道株式会社総裁室弘報課に勤務していた方に直接
パシナ形の色について話を聞いたところ「機関車車体は鉄板の地の銀色
が所々透けたような状態ではあったが薄い塗装で水色に塗られている
パシナ形機関車を見たことがある」との話を聞くことが出来ました。

このことからは満鉄大連沙河口工場でパシナ形2両が先行ロールアウト
した1934年に何らかの事情により「あじあ」開業前の一時期だけ限定
でパシナ形がスカイブルー塗装であったのかも知れません。

一方、満鉄の大連沙河口工場で製造予定のパシナ形11機を全機製造
すると1934年11月1日の「あじあ」開業予定日に間に合わないという
理由から日本国内の川崎車輌へと製造が発注された8両のパシナ形に
ついては全機が濃藍色塗装で完成して、1934年に満州へと送られて
います。

開業日の1934年11月1日にはパシナ形の11両全機が濃藍色の塗装に
なって特別急行「あじあ」の運転は開始されました。

1934年の「あじあ」開業時に南満州鉄道株式会社鉄道部車両設計の
主任技師であった市原善積氏の手記中でもパシナの塗装は濃藍色と
明記されています。1934年11月の撮影写真で市原善積氏とパシナが
一緒に写っている写真が公開されていることからも「あじあ」の開業
当時の色では市原善積氏は間違いない表現をしている。

「あじあ」開業2年後にヘルメット形のパシナ12(981)が製造されました
が1938年以降に「濃藍色」に塗装を変更されました。根拠としまして
は、当時の南満州鉄道株式会社が製作した公式のカラー印刷物の
複数に濃藍色のパシナ12(981)が描かれているからです。

「パシナブルー」と呼ばれた機関車の色がどのように変わって世間一般
に認識されていってしまったのかを考察してみます。

1975年に誠文堂新光社から出版されました「おもいでの南満州鉄道」
市原善積・小熊米雄・永田龍三郎の本文中ではパシナ形蒸気機関車
の塗装は青色との表現が使われていますが「パシナブルー」を知る3氏
の「パシナの青色」の認識が同じであるために単に「青色」との表現で
問題がなかったものと思われます。

1988年には世界文化社から 「忘れえぬ満鉄」が出版されて好評を
博しましたが「忘れえぬ満鉄」の本文中で初めて色の表現に矛盾が
生じました。

パシナ形の運転経験を持つ南満州鉄道元機関士の戸島健太郎氏の
手記ではパシナを「濃藍色の流線型機関車」と表現しているのに対し
永田龍三郎氏の手記の中では「色は淡青色」と初めて表現がなさ
れているのですが「淡」は「濃」の誤植であったと考えられます。

中国で発見されて綺麗な水色塗装で復活したパシナのカラー写真を
多数掲載した書籍でもあり満鉄時代パシナも色の薄い写りの写真を
解説する部分であったために校正を通ってしまったと思われますが
「忘れえぬ満鉄」の出版に際して客車よりも色の濃い写りのパシナ形
機関車の写真を多数を提供した永田龍三郎氏が「色は淡青色」と
認識していたとはとても思えないことが理由となっています。
運行停止で仕業が無くなった「あじあ」の客車は終戦直前まで急行「はと」
の仕業などに付きました。

「あじあ」運行停止後の1944年8月1日に「あじあ」の走る連京腺では、
単線の安奉線を複線化して太平洋戦争下の日本満州間の安全な輸送経路
を確保するために連京線の三十里堡〜大石橋の複線区間で単線化工事を
開始し安奉線、奉山線および朝鮮内鉄道を複線化するための線路資材や
鉄材等が捻出されました。

連京線の三十里堡〜大石橋の区間には急設の信号所を10箇所も設置して
単線化に対応を図りましたが特別急行 「あじあ」の復活を見ないまま終戦
を迎えました。写真は南關嶺付近を通過中の哈爾濱行き「あじあ」

周水子〜南關嶺  S田鉄道博物館蔵          
展望室には豪華な肘掛イスや2人掛けのソファーが配置され定員は12名と
なっていました。客車内部の装飾や用材には、全てスピード感を表現した
軽快なデザインが採用されていて、用材には満州産のクルミ材を主に用い
たほか、模様の複雑なニレの根杢
(ねもく)材を適宜に配してありました。
展望部の窓上の羽目板には、ベニアのモザイクでチェッカー模様があしら
われていました。

展望室と座席室の間の通路の両側には、定員4人の読書室のほかに、回転
イス、書棚、テーブルを備えた小部屋があって読書やカードゲームを楽し
む事ができたほか、マグネット式の碁盤と碁石も備えられていました。
写真は、1等展望客車のテンイ8車内と展望部の様子を写した絵葉書。

1934年南満州鉄道発行  S田鉄道博物館蔵       
1943年2月28日付で特別急行「あじあ」が運行を停止し廃止となった理由
は太平洋戦争の戦況が悪化して日本の制海空権が奪われ船舶の撃沈が多発
したために、大陸と内地との物資の輸送は海上輸送から陸上輸送へ大転換
されたことに起因している。

輸送がより安全な日本海を経由する新潟や下関と結ぶ安東港や釜山港から
の輸送が増大して優等列車の運行より軍需物資の輸送こそが国益上の急務
になったからです。

とくに1942年7月15日から関東軍による南満州鉄道株式会社への指示権が
拡大されると「あじあ」の運行継続に難色を示した軍部の意向にとうとう
南満州鉄道株式会社の経営陣が屈服せざるを得ない状況になったことがあ
げられます。写真は灯火管制仕様になった「あじあ」
沙河口〜大連   S田鉄道博物館蔵         
展望1等客車のテンイ8は、丸屋根の6輪ボギー車で展望室、特別室、1等室
及び付属設備がありました。1等座席室と展望室の間には仕切りが無いの
で車室内は明るく見通しが良い造りになっていました。

定員30名の座席は絹テレンプ張りダブルクッションの回転イスで各座席に
付いているボタンを押せば、どちらの方向にも45度の回転ができました。

テンイ8の特別室は、定員が2名の個室で肘掛イス、ソファーのほかに脇置や
茶卓がセットされて贅美をつくしていました。特別室と車端の間に洗面台
2基を配した洗面所、荷物室、女子トイレ、男子トイレ、車掌兼給仕室、
物入が、配置されていました。写真は、奉天駅に到着した上りの特別急行
「あじあ」の展望車テンイ8で1935年頃に販売されていた南満州鉄道発行の
特別急行「あじあ」の絵葉書の写真である。

1934年奉天駅  S田鉄道博物館蔵       
「科学朝日」の表紙はモデルになった写真を
右に約13度傾けたアングルで描かれていた
写真が撮影された時にはパシナ12(パシナ981)
は濃藍色に塗装変更されていた。
1939年撮影  S田鉄道博物館蔵 
特別急行「あじあ」の客車編成は4編成が製作されましたがパシナから1等
展望車までの7両1編成の制作費は1934年当時のお金で54万円でした。

客車は防音防振対策としてフェルト絶縁が施されフランネル・フェルト帯
や圧搾カポック板で防音されました。また車体は、台車の主要部分に防音
振動防止のためにゴム層を挿入した6輪ボギー式客車とすることで車体の
動揺を軽減していました。
写真は1936年頃に満鉄沿線で販売されていた
お土産用の写真集の中の1枚ですが駅に停車中の「あじあ」の写真を改変
して描かれているもので「あじあ」走行中の後追い写真では無い。    

                 1936年購入  S田鉄道博物館蔵
                                
1938年3月の車輌称号の変更に伴いパシナ981はパシナ12に
称号を変更し一時ナンバープレートがペイント書きにもなり
ましたが車体も「濃藍色」に塗装変更されて砲金製プレート
を装着しました。
1939年8月撮影    S田鉄道博物館蔵    
太平洋戦争中の昭和17年10月号の科学雑誌
「科学朝日」の表紙のパシナ12(パシナ981)は
「濃紺色」の車体写真を参考に描いたために
「淡緑色」ではなく「濃緑色」に描かれた
科学雑誌に「緑色」で描かれた事が重要
1942年10月発行  S田鉄道博物館蔵 
パシナ979は川崎車輌の
 1500番目の製造機
鉄道1万キロの記念スタンプ(哈爾濱)の付いた葉書
記念スタンプ(奉天)もあった

1939.10.21発行       S田鉄道博物館蔵 
下関〜大連は大阪商船の大連航路客船が
定期運行しており大連で新京行き特別急行
「あじあ」に接続していた
3等運賃15円72銭  連帯乗車船券
1936.7.11発行   S田鉄道博物館蔵
東亜遊覧券を使用した安東航路の乗客は
安東から南満州鉄道安奉線で奉天へ行き
奉天から哈爾濱まで「あじあ」に乗った
1等運賃33円44銭   東亜遊覧券
1939.4.15JTB発行 S田鉄道博物館蔵
紀元2600年記念で南満州鉄道線の各駅から橿原神宮や伊勢神宮参拝用に発行された記念「連帯乗車券」
大連からは大阪商船に接続して下関から鉄道省線に乗り換えて大阪鉄道(近畿日本鉄道)の橿原神宮駅
や参宮線山田駅(伊勢市駅)に行ける神戸〜名古屋地区のワイド周遊券(ゾーン切符)になっていた
「あじあ」牽引機のパシナが描かれている

紀元2600年橿原神宮参拝連帯乗車券  1940年発行         S田鉄道博物館蔵
           
「あじあ」のマーク1等展望車テンイ8
特別急行「あじあ」の開業記念タバコ

こちらの図柄には1936年登場のパシナ981が描かれた
別のパシナが「淡緑色」に描かれたタバコも存在する
1936年購入             S田鉄道博物館蔵
「あじあ」特別急行券・2等500キロまで運賃4円東亜旅行社発行の
軟券タイプのもの
2等特別急行券は青色地紋で印刷されていた
切符1枚を見ても「あじあ」は特別な列車だった
                      S田鉄道博物館蔵
「あじあ」特別急行券・1等801キロ以上運賃10円東亜旅行社発行の
軟券タイプのもの
1等特別急行券は黄色地紋で印刷されていた
1000円で家1軒買えた時代10円は高価だった

                  S田鉄道博物館蔵
「あじあ」の特別急行券は乗車5日前から発売され定員276名を厳守した号車指定の定員制でした。

特別急行券には「あじあ」の列車名が赤で印刷されA型硬券と軟券の2種類がありました。1等は黄色地紋、2等は青色地紋、3等は朱色地紋と等級別に
券の色分けがされていました。硬券では赤線を乗車距離300`迄1本、500`迄2本、800`迄3本800`以上4本と印刷して乗車距離を識別していました。
2等や3等客車から1等展望車に時間単位で入れる車内補充券の用意もありました。

乗車券は普通運賃乗車券の他に割引乗車船券があり「内鮮満周遊券」や「往復連帯乗車券」を購入すれば鉄道省線・朝鮮局線・満州国線・満鉄線が運賃
2割引に商船区間も1割引となりました。20人以上の団体旅行では更に高率の割引が適用され上記鉄道線全線が運賃5割引に商船区間も2割引になりま
した。さらに学校教職員及び学生の団体には満鉄線の運賃6割引以上で商船区間も3割引という破格な割引もありました。
当時の日本から満州への団体旅行や修学旅行は「満州へ朝鮮へ」というキャッチフレーズで日本国民に広く宣伝奨励されていました。
1等展望車テンイ8乗車の特別急行券
   800キロまで赤線3本
1等運賃6円 1940年哈爾濱JTB発行
改札パンチ・検札パンチ・回収用整理穴
  乗車駅名の記入が見られる券

3等運賃1円50銭 1939年大連駅発行
車内検札はパンチで丸穴を開けていた
  300キロ乗車まで赤線1本
3等運賃1円  1937年奉天駅発行
「あじあ」開業当初の特別急行券
  500キロ乗車まで赤線2本
3等運賃1円50銭 1936年大連駅発行
1938年5月1日現在の南満州鉄道の路線図では
満州里経由でシベリア鉄道へと連絡していた
パシナ12(981)の本当の色が描かれているイラスト

1938年南満州鉄道発行   S田鉄道博物館蔵   
   

The South Manchuria Railway Co., Ltd.
「あじあ」の乗客手荷物に貼られたSMRのステッカー
1936年乗車          S田鉄道博物館蔵
1936年にヘルメット型「パシナ981」が投入されて日本で人気が出ると
お土産用の偽物写真も客のニーズからなのか、パシナ972のプレートの
ままパシナ981の姿に進化していた。
写真の改変もここまでやると写真
としての歴史的価値は無くなり「単なる絵の部類」に入ると思います
東洋一を誇る「あじあ号」の雄姿
こちらは「あじあ」号の走行写真として1936年頃販売された物だが
前述の写真を大幅修正して描いたもの
ドレーン湯気の根元や枕木
が全く同じ形をしている
             奉天駅改変写真  S田鉄道博物館蔵
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特別急行「あじあ」の編成は、蒸気機関車次位から手荷物郵便車
のテユ8+3等客車のハ8×2両+豪華な食堂車のシ8+2等客車のロ8+
1等展望客車のテンイ8からなる7両編成で客車1両の長さは約25m
で列車1編成の全長は174mありました。

特別急行「あじあ」は、大連〜新京間701.4qにある78駅のうち
停車駅は、大石橋・奉天・四平街の僅か3駅だけという超快速運転
を行っていました。「あじあ」の列車名称は、懸賞応募30066通
から審議審査のうえ決定し、命名され、展望車最後尾の「あじあ」
のマークは、亜細亜の「亜」を図案化して、太陽の光芒を配した
デザインとなっていました。

特別急行「あじあ」が伝説の超特急として語られるのは高速度
運転のほか1930年代では、世界最先端の豪華なロマンスカーで
あり、展望1等車と2等車には転換式のリクライニングシートを
備えて冷暖房を完備した密閉式客車であったことや国際間連絡
特急の役割も果たしていたことなどが挙げられる。

1934年〜1941年6月に独ソ戦が勃発するまで特別急行「あじあ」
に乗車し、哈爾濱駅経由で濱州線の満州里駅でザバイカル鉄道
に乗り換え、チタ駅でシベリア鉄道のシベリア横断急行へと乗り
継ぐとモスクワ・ベルリン経由でパリ・ローマ・ロンドンなどの
ヨーロッパ主要都市へと鉄道で行くことが出来た。

1937年1月の東京〜ロンドン間の欧亜連絡船車連帯切符の運賃
は釜山・モスクワ・ベルリン経由の乗車距離13,645kmで1等
の運賃は795円と当時の銀行員の初任給70円の11か月分以上
と高価でした。

「あじあ」は太平洋戦争激化により運転開始から僅か8年7ヶ月
で運転を休止しましたが「あじあ」の成功が日本本土の鉄道省
にも弾丸列車運転計画を生み新幹線計画へと発展して、1964年
10月1日の東海道新幹線の開通に繋がっていきました。

大連行き「あじあ」は哈爾濱への延長運転開始以前の1935年
8月31日までは、奉天駅13時38分着13時43分発で約5分間の
停車中には「あじあ」を順光で撮影することができました。

1935年9月1日から特別急行「あじあ」は哈爾濱まで延長運転
を開始しましたが、京濱線は線路規格が低く203dのパシナ形は
京濱線には入線が不能で、新京〜哈爾濱では新京駅で牽引の
蒸気機関車をパシロ形蒸気機関車に交換し運転をしていました。
運転の最期まで新京駅以北にパシナ形は入線できませんでした。
南満州鉄道株式会社  特別急行「あじあ」展示室