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パシナ12(パシナ981)の「淡緑色(ライトグレー)」が加わりますが1938年には「濃藍色」に全機が統一されました。
デビュー当初のパシナ12(パシナ981)を「淡緑色」として「ライトグレー」とは明記しなかったのは「ライトグレー」であった物証があまりに乏しく強いて
見るならば前述の記念タバコの図柄であるが、タバコの製造元が東洋煙草株式会社で南満州鉄道株式会社の系列では無い会社の製造物
であるのに対して「淡緑色」であったことをカラーで示す物証の方が多数現存することが根拠になっています。
パシナ形の前照灯も1937年に盧溝橋事件が勃発し中国大陸での日支事変が拡大すると戦時の灯火管制仕様になりました。1941年12月8日
に太平洋戦争が始まるとパシナ形は防空上の観点から一般型機関車同様の黒色塗装に変更されました。塗装変更後の「あじあ」の運転では
牽引機関車を黒く変更した図案が「あじあ」食堂車配布のマッチ箱にも描かれました。
「あじあ」用客車は1943年2月28日の「あじあ」運転休止後には、一般客車と同様の茶色に塗り替えられて南満州鉄道連京線の急行「はと」
にも連結されましたが客車の床下を被う流線型のカバー類は取り外されてしまいました。
「あじあ」牽引機のパシナ形は白黒写真に多数記録されているにもかかわらず、塗装色についての諸説が展開されてしまったのは「あじあ」が
運転を開始した昭和9年(1934年)当時の南満州鉄道株式会社は正規職員数が10928人で全従業員数46170人でしたが会社全体の規模が
次々に建設された新規路線の開業と共に急速に拡大していったために、従業員数も増加を続けて「あじあ」運転開始から僅か8年7ヵ月後に
「あじあ」が運転を休止する頃迄に正規職員数が42089人で、全従業員数が374976人まで膨れ上がっていたことがあげられます。
「あじあ」の運転開始の当時を知る者の数は全社員の僅かに10分の1足らずで、南満州鉄道全路線10000キロ超のうち連京線区間の800キロを
1日1往復走るだけだった「あじあ」の牽引機関車の車体の色については、南満州鉄道の従業員といえども人伝えに聞いたことがあるだけで
特別急行「あじあ」を満州にいるときには実際に1度も見たことがなく白黒広告やパンフレットや白黒写真などでしか日本に帰国するまで見た
ことが無かったという南満州鉄道株式会社の従業員も多かったことがあげられます。
一方、当時の日本本土では「満州といえば満鉄」というくらい国策会社の南満州鉄道株式会社は鉄道経営以外にも大連・奉天・長春・哈爾濱・
星が浦などでのヤマトホテルチェーンの経営や星が浦リゾートの開発、日本人向け中国人向けの各種学校経営・電力供給・ガス供給・炭坑・
製鉄・人造石油製造・軽金属・不動産など満州における主要な産業を一手に行う巨大コンツェルンとして有名で多くの個人投資家からも国家が
経営に携わる安全な投資先として知られた優良企業でした。「あじあ号」という列車名は当時多くの日本本土の人々の中に満鉄の象徴として
または満州国の象徴の1つとして満鉄が東洋一の快速車「あじあ号」を運行している事が広く世間に認識されていました。
太平洋戦争終戦の前年(1944年)には全従業員数398301人のうち日本人従業員数138804人、中国人従業員数259497人でした。1945年に
終戦を迎えた138804人の日本人従業員たちは、ソビエト社会主義連邦共和国軍の満州占領で南満州鉄道株式会社の法人格が消滅した事
を占領軍であるソビエト社会主義連邦共和国軍から通告された後も全社員が満州における現職に留まって輸送及び生産機能の確保に努めて
いましたが、1946年には全員の残留任務が解除され日本本土への日本人従業員の引き揚げが始まりました。
南満州鉄道株式会社の従業員として帰国した方の中には日本本土での「満鉄=あじあ号」という共通認識に自らが体験してきた満鉄の業務は
特別急行「あじあ」の運行と一切関係が無い業務だったのに直面した者や戦後になってから中国で復元されたパシナのカラー写真を初めて見て
「やはりパシナ形の青色はこうだったんだな‥と後日に強く認識した元南満州鉄道株式会社の従業員も少なからずだった」ために伝聞や想像から
語られる話では、情報もまちまちになり「正しい情報が後世に伝わりにくくなった」というのが「パシナブルー」についての結論です。
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