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「松川事件」の真犯人は目撃情報から12人であったとも
9人であったとも言われる。唯一事件の当夜に現場を通
りかかり犯行を目撃した斉藤金作は事件現場で犯人か
ら誰かに事件のことを他言したらアメリカの軍法会議に
かけると脅されたうえに事件5日後になって別の男から
福島にあるCIC事務所(米国情報部対敵情報部隊)へ
出頭するよう命じられたため怖くなり、横浜へと転居しま
したが、転居先の横浜で黒人の米兵と一緒にいるとこ
ろを目撃されたのを最期に40日間も行方不明になった
あと、横浜の運河で変死体となって発見されています。

また、「松川事件」では別件で逮捕した19歳の少年に
対して警察が誘導尋問と自白を強要したことから列車
転覆の共同謀議を行った疑いで無実の者20人が逮捕
され、そのうちの5人に裁判の一審と二審で死刑判決
が出るなど事件の経過は数奇を極めました。

しかし、最高裁では被告側の共同謀議など実は無くて
事実無根であるという「アリバイ証明」となる東芝松川
工場の議事録「諏訪メモ」を検察側が保持していながら
もメモの存在を隠蔽していた事実が発覚した。最高裁は
「検察側の言う事は全く信用出来ない」として2審判決
を高裁に差し戻したため、事件発生から10年後に被告
全員に仙台高裁で無罪が言い渡されました。その後は
最高裁が検察側の上告を棄却したことにより被告全員
の無罪が確定したのでした。

事件は敗戦後のアメリカの占領下において発生し当時
の国内外の社会情勢は複雑でした。

1948年に中国大陸で中国共産党が支配権を確立した
ことにより日本の共産主義化に対して危機感を感じた
GHQ(連合国総司令部)は、日本人がインフレに困窮
している状態では共産革命発生の恐れを感じ、日本に
も資本主義的な豊かな生活をもたらすよう占領政策を
大幅に転換していました。

共産主義から日本を防衛するためには、日本経済の
自立と安定が必要であることから、GHQは国鉄職員
10万人を含む全産業で100万人の人員整理を盛り込
んだ経済安定9原則を日本政府に指示し、その実行
に関し1949年3月9日にドッジ=ラインを発表し公務員
の削減と課税を強化する方針を提示して強烈なデフレ
財政金融引き締め政策を行いました。

GHQは、日本を反共産主義の防波堤とするためには
経済安定9原則の実行に支障をきたすわけにいかず
労働者の支持で躍進を続ける共産党と労働者の大量
解雇に反対していた労働組合左派勢力の活動を急速
に抑えこむ必要がありました。こうした社会背景の中
で鉄道3大ミステリー事件は国鉄による人員削減の
発表が3段階で行われる度に「下山事件」「三鷹事件」
「松川事件」の順番で発生していきました。

敗戦後に帰還した労働者の受け皿となって雇用人員
が62万人に膨らんでいた国鉄は1949年6月1日施行
の行政機関職員定員法により約12万人の人員解雇
を発表し東芝松川工場でも財閥解体による工場閉鎖
で人員整理についての労使交渉をしていました。

現在では「下山事件」については、初代国鉄総裁の
下山定則の鉄道自殺に乗じて他殺説が展開されて
いったもの。

「三鷹事件」については単独犯とされた三鷹電車区の
竹内景助運転士が電車転覆致死傷罪で死刑判決を
受けたのち死刑執行前に獄中で病死している。竹内は
共産党員ではなく犯行も行っていなかったが事件当初
に担当した共産党系弁護士から「微罪で済むから自供
をした方が良い」「釈放後は共産党の英雄として幹部
の席が与えられる」などと教唆されたために犯行を認め
てしまった冤罪事件であった。三鷹電車区至近の宿舎
に住んでいた竹内運転士は事件発生時刻には職場の
上司及び同僚と共に職員用の風呂に入浴中であった。
事件発生による停電は、その時に起こったのであった。
自白以外は確たる証拠も無いままに、その後の裁判
では全くの書面審査だけで竹内に極刑である死刑が
確定してしまったのだが、他に真犯人があったもの。

「松川事件」についてはGHQの下部組織であるCIC
の謀略により雇われた中国大陸からの日本人帰還兵
複数名により犯行が実行されて引き起こされたもので
高度な国際的かつ政治的な陰謀事件であるという説
が最も一般的となっています。

しかし「松川事件」は1964年8月17日で事件の時効が
成立したため、未解決の事件となって現在に至るまで
真犯人や事件の真相は闇の中となっています。

鉄道3大事件は全て共通の陰謀によって引き起こさ
れたという説を唱える者もあるが、むしろ事件は個々
に発生し事後になって、それぞれの事件がアメリカ
や当時の日本政府の国益に適う共産勢力の弱体化
に利用されたと見るほうが妥当であると思われる。


撮影後は、
「583系の福島花見山号」「ED75貨物」
「455系」
の撮影に転戦しました。


2006.4.22 撮影 松川〜金谷川  

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